追記

文中に

>>このショパンのソナタの楽譜を買おうと思い、楽譜屋に行った場合、品揃えのよい店なら4種類の楽譜が置いてあるはずである。

という一文が有ります。

これは、この文章を書いた時の物であり、その後2010年のショパン没後200年記念に合わせ、ショパンの作品には定評のあるナショナルエディションPWMから原典版が発売されました。

念のため、ここに追記しておきます。




ショパン:チェロソナタ

陶芸家が窯から焼きあがった作品を取り出し、気に入らない物を全部割っていく姿をテレビで見たことがある。

本当に皆がそのようにしているのか私は知らないが、自分が失敗だと思った作品が残るのが嫌だという気持ちはよく理解できる。

沢山の物を焼き、その中の幾つかに納得のいく作品が生まれ、世に問われるのであろう。

私は昔、自分が納得いったもので世に問えることが羨ましくて仕方なかった。

私などは演奏会終了後、”こんな筈ではなかった”とか”今回のは聴かなかった事にしてくれ!”といつも思う。自分が思い通り演奏したものを聴いてほしいのだが、今まで一度も納得いく演奏を聴かせる事ができたことがない。

それが証拠というか、気のせいかリサイタルがある度にホールが小さくなっていき、入場料は安くなっていく。

このままでは、2~3年後にあるかもしれないコンサートは入場無料の客席1つ、会場は私の部屋などとなってしまうのではないだろうかと心配している。

ショパンは現在大作曲家とし名を残しているが、当時は一世を風靡した大ピアニストでもあった。

ピアニストとしても大成功していた彼の作品にピアノ曲が多いのは当然として、それ以外に何曲か室内楽の作品を書いているのだが、嬉しい事に全ての曲にチェロが使われている。

現在でこそ独奏楽器としても確固たる地位を築いているチェロであるが、先人たちのメジャーな楽器はピアノであり、ばよりんであった。

ばよりん曲とチェロのための曲数を比べるまでもないだろう。その中で、ばよりんソナタを書かずにチェロソナタを残したショパンは珍しい存在である。

因みに、ラフマニノフもやはりばよりんソナタを書かずにチェロソナタのみを残している。

ラフマニノフのチェロソナタのページでも書いたが、ラフマニノフはチェロに魅力を感じ、チェロソナタを書いたようだが、ショパンの場合は友人の中に、フランショムというチェロの名手がいた事が影響したようである。

もしフランショムがいなかったら、ショパンはチェロソナタを書かなかったかもしれない。

もし親友がびよら奏者だったらびよらソナタを書いていた、、、わけないか(びよら冗句)。

そして、ショパンは友人フランショムと共演し、自分でこの曲を初演している。

たいていのチェリストというか、演奏家が曲を勉強しようと思うと、まず楽譜を買ってくる。(CDを買ってきて音を聴き、それをすべて書き取り、自分で楽譜にする人はいないと思う。)

このショパンのソナタの楽譜を買おうと思い、楽譜屋に行った場合、品揃えのよい店なら4種類の楽譜が置いてあるはずである。(この他私が知る範囲で、例えば韓国の出版社から2種類発行されているが、あくまで一般的に世間に普及している4種類とお考え下さい。)

どの出版社の楽譜を買おうか音譜をちょっと見比べると、スラーや強弱記号はおろか、音までもが版により違うのにすぐ気付くと思う。

例えばヘンレ版通りに演奏した場合と、パデルスキー版通りに演奏した場合、受ける印象、解釈はかなり違うはずである。

何故このような事が起こるかというと、通常は校訂者の解釈が多分に入っていることが上げられる。

これに関しては賛否両論なのだが、校訂が入っている楽譜の場合、大芸術家がどのように曲を解釈しているか、あるいは単純に名人のフィンガリング、ボーイングを知ることができる。

ただ、時として改訂、編曲というか、作曲者の意図からかけ離れた指示が書き加えられてる楽譜もあり、その辺は考察せねばならないだろう。と有名演奏家とか指導者が何かにえらそうに書いていたのを読んだ事がある。

そこで原点版(ヘンレは原点版をうたっているもののカンギーサー氏の校訂入り)というのがあるのだが、これはなるべく作曲者が書いた通りに印刷、出版されている。ところがショパンの場合、出版社泣かせと言うか、どれを原点とすればよいか、難しいのだ。

大変有名な話なのだが、ショパンはこのチェロソナタの出来に不満で、友人にあてた手紙の中で、”このソナタは失敗作だ!”と書き残している。

確かにグッとくる旋律や、美しい旋律が有るものの、纏めるのが非常に難しく、また、バランスの観点から見ると、彼の他の作品、ピアノ曲と比べると劣っている事は否めない。と何かにえらそうに宣告するかのように書いてあった(私がえらそうに宣告したわけではない)。

ショパン先生、それ故この曲を何回も何回も演奏しては書き直したのである。らしい。

”この曲は失敗だー”とか言って破り捨てたりしなかったお陰で、チェリストは素晴らしいレパートリーを残してもらったが、演奏効果を高めるため、こまめに書き直されたこのソナタは、解釈の面で様々な取捨選択を迫られる。

恩師バルトロメイ先生がこの曲を録音する時、世界中の友人チェリストに連絡し、どのエディション(版)を使っているか、どのように解釈しているか聞いていた。

先生の出した結論は”基本的に○○○○○、ただし、○○○○○に関しては○○○に添って”であった(企業秘密です)。

この考えは、ロシア人のグートマン氏の考えに賛同したらしいのだが、録音を聞くと真新しい解釈に聞こえる。

事実、論評で”フォルテの所を弱く弾いたりしている。”(例えば曲頭の事と思われる)と言うのを目にした事があるが、これは執筆者の知識不足で”弱く”と指示されてる楽譜もあるし、○○○を○○○と○○と考えると、”弱く”も説得力があるのだ。

以前私がC・R氏のレッスンをこの曲で受講した際、先生に渡した楽譜と私の使ってる楽譜の版が違い、先生が私に、”そこの所、楽譜通りに弾きなさいよ”と苦笑しながらおっしゃった事があった。

だが、私の譜面には、私が弾いた通りの指示になっているので、”私の譜面はこうなってるんですが、、、”と言うと、前述の失敗作、何度も書き直した話とエディションの選択に関し話して下さったという事があった。(因みにこの時のRHター先生の版のチョイスに関する考えは面白かった。詳細は内緒)。

初期の作品である”別れの曲”で、”こんな美しい旋律を書いたのは初めてだ”というコメントを残したピアノの詩人ショパン。

チェロソナタは、一度書き上げながら納得できず、何度も書き直された。それは自分を超えようとする戦いで、その厳しさは、芸術家なら誰でも容易に理解できるであろう。

私も演奏する度、次回は絶対に今回より良い演奏を!と常に思う。

自分を超えようとする熱い戦いが聞こえる作品であり、そんな芸術家の心の葛藤が聞きたい人にお勧めの1曲。

さらに、ショパン、ラフマニノフという偉大なピアニストであった2人の作曲家が選んだ楽器がチェロという偶然!

ピアニストが書いた曲だけあり、ピアノは超絶技巧!その上をチェロが朗々と唄う。そんなピアニスティクなチェロソナタが聞きたい人にもお勧めの1曲。

ショパン チェロソナタ お勧めのCD

賛否が真っ二つに割れるが私は素晴らしいと思うダニール シャフランの録音をまず挙げたい。(生理的に受け付けない人が多いからこれ読んで買おうかなと思った人は慎重に!私は責任取れません。)

個性的なんて言葉の枠を超えて、自分の解釈街道マッシグラのシャフラン氏。

曲の雰囲気を表現する事にかけてはピカイチ。

すべての場面で妥協する事なく自分の考え、音で主張しているこの演奏、自分をだしゃー良いってわけではない!

という偉いセンセのご意見もあるが、私には主張の分だけの曲に対する愛情、重み、思い入れの深さを感じ、ショパンに聴かせてあげたいといつも思う。

因みに若き頃、ロストロポーヴィッチとシャフランがコンクールで何度も同点優勝だったという有名な話、お互いの演奏を聴くと、比べることがいかにナンセンスな事かと思ってしまう。

トゥルルス モルクの演奏は彼の美音が堪能できる。こんな音がだせたらな、といつも思う。

清潔感ある演奏で、安心してチェロを楽しみたい人にお勧め。

恩師バルトロメイ先生の録音はこの曲の解釈がいかに難しいか、多面性とでも言おうか、演奏者がこの曲で考えねばならない事を考えさせられる。

私はこの録音を聞いた時、先生少し考えすぎてしまったのかなぁなどと思ったりもした。

ウィーンスタイルが時折顔をだすものの(これは実際にウィーンで勉強しないと解らないだろう。

これが解るようになっただけでも勉強しに行って良かったなと思う)、他の録音と違って、先生の持ち味、個性が前面に出てない為、バルトロメイファンには物足りないかもしれないが、

演奏効果を高めるために何度も書き直したショパンの意を汲もうとした先生の献身的な解釈はショパンファンにお勧め。

因みに自分の録音を聞いた先生は、自分の意図した事ができたとご満悦でした。(特に2楽章はポーランドの舞曲の様に弾けたと自画自賛してました。)

この他巨匠R氏とピアニストAの録音は、うーん・・・勿論すばらしいです。。。

でも・・・室内楽、アンサンブルとして聴くと・・・でもそれを言うとシャフランなんてね。

曲目解説

ショパン  チェロソナタ

難波研

 フリデリク・ショパンは1810年3月1日にポーランド、ワルシャワ近郊の町ジェラゾヴァ・ヴォラに生まれ、1849年10月17日にフランスのパリで没したピアニスト・作曲家。半音階的な和声法や様々な形式に美しい旋律を融合しピアノの表現様式を拡大、それまでの音楽界では考えられなかった新しいピアノ音楽の地平を切り開いた偉大な音楽家である。ショパンと言えば一般的に有名なのはピアノによる作品群であり、それらの作品にまつわるエピソードも豊富であるが今回はそんな『有名なショパン』の話は割愛し、『ショパンとチェロ』について書き進めていく事にしようと思う。 ショパンはピアノの為に書かれた作品の他には、幾つかの歌曲や合唱曲、そしてたった4つの室内楽曲を残したに過ぎない。しかし、その4曲の室内楽曲のうち実に3曲がチェロとピアノのデュオ作品なのである。その理由には、ショパンがチェロの音色を非常に愛していたと言う事もあるだろうが、オーギュスト・フランショムと言うチェリストの親友が居た事が最も大きな理由であると考えられる。本日演奏されるソナタもフランショムの為に作曲され、初演も彼とショパンによって行われている。 このソナタはショパンの最晩年である36~37歳の時に作曲され、実際に彼が初演した最後の作品になった。ジョルジュ・サンドとの別れや、かねてより患っていた結核の悪化等で心身ともに衰弱していたショパンがこの曲を書く切っ掛けになったのは、傷心パリに戻った彼をフランショムが手厚くもてなした事に対する感謝の気持ちのあらわれからだったと言われている。どちらかと言えば小品を得意とした彼が、ソナタ形式による大作を作曲した事からも、彼らの友情の深さ、そしてチェロへの愛情が感じられる。 この曲は全楽章に渡り、ピアノとチェロが対位法的に絡み合い、協奏的に音楽を展開させて行くのが特徴で、両楽器共に難易度の高い技巧的な曲になっている。このような楽器同士の対位法的な処理は今までのショパンの作品にはあまり見られなかった傾向であり、彼が死の直前にあっても新たな可能性を模索していた事を物語っている。個人的には、楽器の扱いや対位法的な処理にシューマンの室内楽作品の影響を感じる部分も多く、非常に興味深い作品である。

【第1楽章:アレグロ モデラート】 ソナタ形式であるが、随所に巧妙な転調が見られ主調が曖昧になっている点や、再現部の第1主題が省略されている点等から、ショパン独特のソナタ形式である事がうかがえる。展開部の充実や、第2主題の扱いから、一種のロンド形式の様にも感じられる。 ピアノの華麗な前奏に導かれたチェロの力強い第1主題と、美しく雄大な第2主題の対比が非常に素晴らしい楽章。どこを切っても美しいメロディにあたるという、まさにショパンの典型的な楽曲と言える。チェロとピアノの主題の受け渡しが特徴で、この対位法的な独特の楽器法が全曲を通して貫かれている。特に、展開部の書式は見事としか言いようの無い完璧な出来。

【第2楽章:スケルツォ】 全曲を通して細かい転調を繰り返しながら疾走していくスケルツォ。単純な形式の中に様々なスパイスがちりばめられた刺激的な楽章。荒々しく男性的な第1主題と美しく叙情的な第2主題、そして流麗なトリオの3つの部分の対比から出来ている。

【第3楽章:ラルゴ】 美しい旋律の対位法的絡みが特徴の緩叙楽章。ピアノの華麗な分散和音によって導きだされる、チェロの憂いに満ちた主題は、第2楽章のトリオからのエコーになっている。チェロとピアノの繊細なメロディの推移を心行くまで堪能出来る、短いながらも充実した楽章。

【第4楽章:フィナーレ アレグロ】 第1楽章と同じく、ショパン独特のソナタ形式。しかし、こちらの方がよりロンド的性格が強くなっている。力強いピアノの前奏に導かれてあらわれる主題は、まるで英雄の勇敢な姿を表現しているかの様な雰囲気を持っている。それは、彼の故郷であるポーランド民謡の香りのする第2主題によって、よりその印象を深める。非常に技巧的なチェロとピアノの応酬は、抑圧された祖国の解放を願う彼の想いを代弁しているのであろうか。そんな激しい再現部を過ぎると、鮮やかな光に包まれたコーダに突入する。まるで、勝利の喜びを高らかに歌い上げるかの様に、まばゆい煌めきと歓喜のうちに華麗に幕を閉じる。

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