千葉県柏市出身。
母(桐朋学園大学ピアノ科卒)の手ほどきでピアノを始める。
聖徳学園附属高校音楽科、桐朋学園大学音楽学部卒業後、渡欧。
ウィーン市立音楽院、マーシャル音楽院(バルセロナ)を経てケルン音楽大学卒業。
桐朋学園在学中、サントリーホールにて加奈井洋介指揮、東京メモリアルアンサンブルとベートーヴェンのピアノ協奏曲第一番を共演。
滞欧中は、マックスレーガー音楽祭より助成を得、同音楽祭に出演した他、バルセロナでリサイタルを開催。
帰国後もヴィーエ・フランチージェネ国際音楽祭、マルコ・ポーロ音楽祭等より招聘され、イタリアを中心に海外公演を行う。
ピアノを林田皇太郎、徳丸聡子、紅林こずえ、アリシア・デ・ラローチャ、ジャン・ファシナ各氏に師事、ピアノ即興演奏をガリーナ・ブラチェバ氏に師事。
柏ジュニアストリングオーケストラのピアノ講師、青少年のためのスペイン音楽ピアノコンクール、及びスペイン音楽国際コンクールの審査員を務める。
現在はピアノソロ・室内楽・ピアノ即興演奏の三本柱で演奏活動を行う他、バレエや朗読とのコラボレーションを行う。
また、児玉さや佳プロデュースと題し、アミュゼ柏で定期公演を行い、恩師である山口裕之氏をお招きして、ベートーヴェンとブラームスのヴァイオリンソナタ全曲演奏、チェロの佐藤智孝を交えベートーヴェンのピアノトリオ全曲演奏を行う。
私とピアノ
母がピアニストだった私の家には、私が生まれた時からグランドピアノがありました。
ピアノとの出会い
母の練習するピアノの下で遊んだり寝たりしていた私にとって、生まれた時から身近にピアノの音がありました。
そして、母のところに大勢の生徒さんがピアノを習いに通っていた事も有り、私も自然にピアノに向かうようになりました。
私は5歳から母の手ほどきを受けるようになりましたが、母は私を音楽家にさせるつもりは無かったそうで、楽しんで弾いていた様に思います。
そんな楽しいだけだった私のピアノの大きな転機は、小学校5年生の時、徳丸聡子先生に習い始めた事になります。
徳丸聡子先生
徳丸聡子先生は、母が桐朋の学生だった頃、演奏解釈の講義を行っており、その授業を履修していた母にとっての憧れの先生で、娘を習わせるなら・・・と思っていたそうです。
徳丸先生は、レッスンで沢山お手本を示して下さり、私はそれをうっとり聴きながら『ああっ!そういう風に弾きたいなぁ!』と思っていました。
私の地元・柏から先生の家まで電車で1時間、小学生には長い道のりでしたが、レッスンに行く電車の中は緊張、そしてレッスンでは感銘と刺激を受け、帰りの電車は幸せな気持ちで溢れていました。
音楽高校へ
中学に入り、徳丸先生に学ぶ私のピアノに対する思いはどんどん募り、音楽を勉強したいという思いが湧き始め、高校は普通科では無く、音楽科に進学しました。
音楽高校での3年間は、林田皇太郎先生に師事しました。
私が入学した地元の音楽高校は、1クラス30人にも満たない小さな学び舎でした。
ですが、留学から戻られたばかりの若い新進気鋭の先生や、熱心な先生方が、私たち生徒が更に音楽が好きになる様、工夫を凝らして、時に厳しく、時には面白おかしく教えて下さいました。
音楽理論の難しい話も、音名に「ちゃん」とか「くん」を付けて親しみやすい易くして、なんだかふざけている様でもきちんと基礎を学べたのは感謝です。
フランスが先進国のソルフェージュ(歌ったり、聴き取ったり、リズムをとったりする訓練)では、フランスから帰ったばかりの先生が、『これぞフランスのソルフェージュ!』という様な課題をお持ち下さり、「勉強」というより「遊び」の感覚で授業がありました。
そして、私の母校では、頻繁に海外の著名な演奏家を招聘し、学内のホールで演奏会を開いていたのですが、この中で、私のピアニスト人生に大きな影響を与えてくれる出会いも有りました!
ラローチャとの出会い
学校主催で行われた演奏会「アリシア・デ・ラローチャ ピアノリサイタル」でのラローチャ女史との出会いは、私にとっての目標とするピアノの音との出会いであり、この演奏会以降、私の一番好きなピアニストは「アリシア・デ・ラローチャ」で有り続ける事となったのです。
ラローチャ女史との出会いは、私にとっての世界一のピアニストとの出会いであり、私の人生・音楽観を大きく変える事となりました。
桐朋学園大学
地元の小さな音楽高校を卒業した私は、母の母校でも有る桐朋学園大学に入学ました。
桐朋学園での大学4年間、私は専門のピアノを紅林こずえ先生に師事しました。
紅林こずえ先生
紅林こずえ先生には、『音楽は「音を楽しむ」と書くけれど、音が大事である』、どういう音の出し方をすれば良いのかについて、とことん教えて頂きました。
そして大学2年の夏、私はサントリーホールにてベートーヴェンのピアノ協奏曲第1番をオーケストラと共演するチャンスが訪れました。
紅林先生はこの時、お忙しい時間を縫ってリハーサルを聴いて下さり、本番前も楽屋のそばで見守って下さいました。
先生は、いつも温かく、そして厳しくご指導下さり、有意義で充実した学生生活へと導いて下さったかけがえのない恩師です。
紅林先生のホームページ
紅林先生のホームページはこちら⇒紅林こずえ ピアノ音楽スタジオ
初めてのマスタークラス
サントリーホールでの演奏会後、私はザルツブルグのモーツァルテム音楽院でのマスタークラスを受けるため、ヨーロッパへ渡りました。
初めてのヨーロッパでのマスタークラスは、演奏もですが、「ドイツ語が分からなかったらどうしよう・・・」と語学も不安でした。
ですが、そこは若さで乗り切り、レッスンの無い日は一人で電車に乗って近郊まで遊びにも行きました。
2週間のマスタークラスで師事したのはアイナー・ステーン=ネクレベルク先生。
セミナー中は、様々な言語が飛び交うので、頭の中はドイツ語と英語と日本語がごちゃごちゃ。
レッスンで、「修了コンサートは何が弾きたい?」とドイツ語で聞かれたにもかかわらず、とっさに「ベートーヴェンのコンチェルトを弾いて良いですか?」と日本語で、真顔で答えてしまったりもしました。
なぜか先生には通じたのですが、隣で聞いていた日本人学生に、「今、日本語で言ったよね?!」と笑われた事、そして、修了演奏会でネクレベルク先生の伴奏でベートーヴェンのコンチェルトを弾いた事は、とても良い思い出となっています。
副科ヴァイオリン
弦楽器とのアンサンブルに興味があった私は、大学に入って副科でヴァイオリンを山口裕之先生に師事しました。
N響のコンサートマスターとして、更には芸大と桐朋で教鞭をお執りでご多忙だった山口先生に、副科、しかも全くの初心者であるにもかかわらずご指導頂き、今思うのは、申し訳ない思いと、そして深い感謝です。
ピアノと弦楽器の大きな違いの1つに、音が減衰するか持続するかという点があります。
ピアノは弾いたら減衰しますが、弦楽器は弾いている間中鳴り続け、変化させていく事が出来ます。
ヴァイオリンを習い始めた頃は、弦楽器の方が表現力が多彩なのでは?!と、うらやましくも思いましたが、今はピアノは減衰するから魅力があるのでは、と思ったりもします。
山口先生には2年間、副科でヴァイオリンを教えて頂きましたが、ヴァイオリンの事は勿論、先生の教えでとても印象に残っているのが「ベートーヴェンはチャーミング」という事。
レッスンでのお話や、先生のベートーヴェンの演奏会を通して、ピアノソナタだけ弾いていたのでは見る事の出来ない深く美しい世界を教えて頂きました。
そしてその後、2012年-2017年にかけて、アミュゼ柏でベートーヴェンのヴァイオリンソナタ全曲演奏をご一緒させて頂き、今でもステージの上でベートーヴェンの奥深さ、面白さ、偉大さ、それに加え、探究の楽しみをご指導いただいています。
副科チェンバロと通奏低音
桐朋学園時代、私は副科ヴァイオリンの他に、副科チェンバロも履修し、有田千代子先生にご指導いただきました。
また、渡邊順生先生の通奏低音の授業も履修し、渡邊順生先生にフォルテピアノを指導して頂きました。
因みに、チェンバロはウィーン市立音楽院に在籍中も副科で履修していました。
室内楽
桐朋では、室内楽としてピアノトリオやチェロとのデュオを岩崎淑先生、藤原浜雄先生、毛利伯郎先生にご指導頂きました。
室内楽のレッスンでは、先生が『ちょっと一緒に弾いてみて』と、ほんのワンフレーズを一緒に弾いて頂くだけでも、別の次元の世界にフワッと行って来たかの様な錯覚で、驚きました。
音楽家というのは、全く違う力を持っていて、夢の世界へいざなって下さるのだ、と思ったものでした。
海外 武者修行
桐朋の卒業式に出た後、私は友人のつてを頼って、ウィーンへ渡りました。
大学在学中から何回かヨーロッパへ講習会を受けに行ってましたが、ドイツ語がまだ全然ダメでしたので、ウィーンで語学学校にも通いました。
渡欧して数か月経ったある時、友人が「こんな講習会があるよ!」と、私に教えてくれましたのですが、それはなんと!私の一番好きなピアニスト・ラローチャのマスタークラスだったのです。
募集要項をよく読むと、録音を送らなければならず、そこで合格した人のみが受講できる、との事。
しかも、スペインものの曲を送らなければならない。(ラローチャはスペイン人で、スペインものは右に出る者がいないとされています)
私はラローチャが世界で一番好きなピアニストなのに、それまで一度もスペインものを弾いた事は有りませんでした。
でも何としても受講したい!!という思いが強く、ダメもとでバッハとシューマンを録音を送りました。
すると・・・なぜか通ってしまったのです!
あの、ラローチャにまた会える、しかも今度は習える!!!
合格通知が来てから、さて、これはやらなきゃ、ということになり、初めてスペインの曲を勉強し出しました。
ラローチャのマスタークラス
上の写真は、シュレースヴィヒ=ホルシュタイン音楽祭の一環として、リューベック音楽大学で行われたラローチャのマスタークラスでの一枚になります。
マスタークラスの初日、「スペイン音楽と言えば、何を思い浮かべる?何が大事だと思う?」とのラローチャの質問に、私たち受講生は、ギター・フラメンコ・踊り、などと思いつくままに発言しました。
「そうね、ギターもフラメンコも大事な要素だけど、スペイン音楽にとって最も大事なのはリズムなの。」
彼女のレッスンでは、皆がリズムよく弾くよう心掛けなさいと注意されました。
これは、すぐに直すのは難しく、何度も「Rythm!Rythm!Rythm!」と言われながらも、なかなか思うように修正できないのです。
最後には、ラローチャはちょっと呆れていたような・・・、そして、受講生同士も苦笑していた場面も有りました。
彼女の演奏は、抜群のリズム感が持ち味だと思いますが、それは演奏の生命線ともいうべき大切な要素なのでしょう。
私は、ラローチャの演奏するシューマンも大好きでしたので、シューマンの「フモレスケ」もレッスンして頂きたく、何度か申し出たのですが、結局、レッスンはして下さいませんでした。
でも、代わりに、講習会の最後のレッスンの後で、なんとこの曲の冒頭を弾いてくださいました。
それは・・・その場にいる全ての人が一瞬で引き付けられ、特に女性たちの目には涙がつたっていました。
こんなに幸せな事ってあるのか、と思いました。音楽の力は、不思議です。
バルセロナにて
せっかく、ヨーロッパまで来ているのだから、大好きなピアニストに習いたい!
丁度、ラローチャが引退した年、私は彼女の下で本格的に学ぶべく、バルセロナに住むことにしました。
毎週1回のレッスンでは、グラナドス、アルベニスなどスペイン音楽の他、バッハ、ベートーヴェン、シューマンなども勉強しました。
80歳を超えていながら、とてもお元気で、「何度もいったでしょーーっ」などとガミガミ言われることもしばしば。
私は内心、でも出来ないよ~~~と思いつつ、必死でやるしかありませんでした。
ある時、風邪をひいたから今日は学校ではなく、自宅レッスンにしてほしい、と連絡がありました。
ご自宅へ伺ったところ、「うつると良くないから近づかないで」と寝間着姿でレッスンして下さいました。
高齢で具合が悪いのに、教えて下さる姿に、彼女の並々ならぬ強さを感じました。
上の写真は、バルセロナでのリサイタル。
終演後、ラローチャ先生と母と。
※2009年9月、ラローチャ先生が永眠なさいました。
>>アリシア・デ・ラローチャ先生への追悼
ファシナ先生との出会い
その後、勉強する場所をドイツに移し、各地の講習会にも参加していました。(ドイツで行われる講習会のほとんどは日本に比べると格安なため、学生は手軽に学外でも学ぶ事が出来ました)
ベルギー・アンギアンで行われた講習会で教えていらした、ジャン・ファシナ先生との出会いは、私のテクニックを大きく変えた先生になります。
ファシナ先生は、ショパンの弟子の弟子の弟子であり、ショパンのレッスンとなると、特に熱が入ります。
講習中は、ゆっくり練習しなさい、と受講生全員におっしゃるので、練習室から聞こえてくる皆のピアノの音は、超slow。
あまりに遅く弾いているので一体、何の曲を練習しているのかわからないほどでした。
実は、これは他の講習会ではありえません、皆ガンガン練習しますから。
でも、そのお陰で、講習会が終わる頃には皆、無理なく身体を使い、音を丁寧に聴くようになっていました。さすが名教師!です。
先生は、同じことを何度注意しても苦にならないそうですが、それでこそ名教師なのか、とうなづけました。
ダメな時は、小さなことでも見逃さず「だめ!」。でも、成長できた時には、一緒に喜んでくださいました。
先生はフランス人なので、私は独学でフランス語を学び、レッスンに行くとまず、譜面台の上に、左には辞書、中央には楽譜を載せていました。
ある時、先生は、私の辞書をぱらぱらめくりながら、今日は何を弾く?と。音楽に対する厳しさと、ユーモアを分け与えて下さいました。
帰国後
留学中より日本国内での演奏活動も開始しました。
2005年からアミュゼ柏で始めた「児玉さや佳プロデュース」シリーズは、今でも続けている活動です。
本格的なコンサートや、サロンコンサート、施設・学校などの訪問コンサート、さらに土間でのコンサートなど、ピアノが弾けるところならどこでも演奏しています。
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